天草の潜伏キリシタン関連の地に 熊本・天草旅行(13)


熊本・天草へ家族旅行したときのことを断続的にアップしています。

1日目は熊本城などを観光して美味しい馬肉料理を楽しんで、市内に宿泊。

2日目は天草へ。
その途中で観光地を巡り、おいしく飲食しました。

「天草」と聞くと、天草四郎、島原・天草一揆を思い出します。
そんな天草に行ったのは、世界文化遺産になった「潜伏キリシタン」のことを知るため。

世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は12の遺産群で構成されていて、多くは長崎県にありますが、熊本県の天草にも遺産の一つがあります。

世界文化遺産に登録された熊本県の遺産は天草の崎津集落
そこを含めていくつかの潜伏キリシタン関連の施設を巡りました。

そもそも「潜伏キリシタン」とは何なのか?そのごく簡単な説明も含めてご紹介します。


◆潜伏キリシタンの歴史

日本でのキリスト教布教は、1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの来日に始まります。
九州の大名の多くはポルトガル貿易の利益を求めて宣教師の活動を受け入れ、宣教師は、領主(大名)をキリスト教へ改宗させ、家臣や領民をキリスト教へ改宗させたました。改宗した「キリシタン大名」には大村純忠、有馬晴信、大友宗麟、小西行長らがいます。

しかし豊臣秀吉は、1587年に「バテレン追放令」を発令してイエズス会に寄進されていた長崎を没収して直轄地とし、1597年には畿内居住の修道士6名を含む26名のキリシタンを処刑(日本二十六聖人の殉教)。
徳川家康はポルトガル、スペイン貿易の継続のため、宣教活動や日本人のキリスト教信仰を黙認し、キリシタンは17世紀初頭の最盛期に37万人以上に達しました。
しかし1614年、大坂冬の陣を前に全国的なキリスト教禁教令を発して、宣教師をマカオやマニラに追放、教会堂を破壊。キリシタン大名は仏教へ改宗し、配下の武士も棄教。1622年、長崎で司祭や修道士、日本人キリシタンなど55名が火刑、斬首(元和大殉教)。一般の民衆への禁教が強制されていきました。

そして1637年、領主の圧政と飢きんを契機に「島原・天草一揆」が起こります。
密かにキリスト教信仰を続けていた島原、天草地方の約2万数千人の農民らが蜂起し、廃城の原城跡に立てこもりますが、88日間の攻防の末、幕府軍は一揆勢を女性や子どもまで皆殺しにしました。
さらに江戸幕府は1639年にポルトガル船来航を禁止して鎖国政策をとり、ヨーロッパとの交易はプロテスタントのオランダと出島でのみとなった。
江戸幕府は聖画像やメダイ(メダル)などの信心具を踏ませる「絵踏」を行い、五人組制を導入して密告対象を一般民衆にまで広げます。
1617~1644年に75人の宣教師と1,000人以上の潜伏キリシタンを処刑。1644年に最後の宣教師小西マンショが殉教して、日本の宣教師は不在となりました。

それ以降、約2世紀にわたりキリシタンは「潜伏」して、独自に信仰を続けることを余儀なくさます。
かつての宣教拠点とその周辺で、長期間に宣教師から直接指導を受けて強固な共同体の基盤が整っていた長崎、天草地方の集落では潜伏キリシタンが途絶えず、様々な方法で信教を継続しました。

江戸時代末の開国で、長崎に外国人居留地が作られ、1864年には長崎に「大浦天主堂」が建設。翌年、長崎浦上村の潜伏キリシタン十数人が訪れて宣教師に信仰を告白(「信徒発見」)。
各地の潜伏キリシタン指導者がひそかに大浦天主堂を訪れて宣教師と接触します。宣教師の指導下に入ることを決めた潜伏キリシタンはキリスト教を表明しますが、当時の明治政府は禁教政策を続けていたため、信者が弾圧されます。

1873年、キリスト教が解禁。潜伏キリシタンは、(A)カトリックへの復帰、(B)集落内の信仰指導者を中心に従来の潜伏キリシタンの信仰を継続(かくれキリシタン)、(3)神道や仏教に転宗、などに分かれます。
Aの信者たちは集落に素朴な木造の教会堂を建て、その後、レンガ造やコンクリート造の教会堂も建ちます。

こうして「潜伏キリシタン」は、明治以降に3つに分かれ、Aの人たちはカトリックへ、Cの人たちは仏教・神道へ、それぞれ改宗することで「潜伏」が終了しました。しかしCの人たちは「潜伏」時の宗教形態のままに「かくれキリシタン」を継続します。
したがって観光客の訪れ先のメインはAだ、ということも知っておきたいです。


◆天草四郎ミュージアム

最初に訪れたのは天草四郎ミュージアム

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「島原・天草一揆」の首領(総大将)・天草四郎をテーマにした資料館。

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16歳で一揆の総大将になった天草四郎の像が立っています。

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「島原・天草一揆」の歴史的背景や南蛮文化の影響を受けた当時の模様を資料と映像で紹介しています。
2階が瞑想空間になっていて、天草キリシタン史の映像を観たあとで、瞑想してリラックスできます。




◆天草ロザリオ館

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潜伏キリシタンの貴重な遺物を集めた資料館です。
再現された隠れ部屋で、祈りの声(オラショ)とともに祈りをささげる様子がとてもリアルです。


◆大江教会

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天草ロザリオ館から歩いて坂を上ると大江教会があります。
現在の教会は、1933年にフランス人宣教師ガルニエ神父が私財をもとに建立したものです。

かつての大江村は、次の崎津村とともに「天草くずれ」の舞台となったところです。
「天草くずれ」とは、1805年に起きた事件で、大江、崎津、今富、高浜の4か村で約5200人の潜伏キリシタンが発覚し検挙されたもの。
大江村では2,135人(村民の68%)、崎津村では1,710人(同71%)、今富村では1,047人(同57%)もの人たちが「宗門心得違い者」とされました。(参考:天草探見「天草崩れ」

大江村では、明治のキリスト教解禁後に最も早くキリスト教会が建てられたそうです。ということは、早くに潜伏キリシタンからカトリックへ改宗したということです。




◆崎津教会

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明治のキリスト教解禁後、この後で紹介する﨑津諏訪神社のとなりに木造の教会が建てられました。
崎津村も「天草くずれ」があったところ。
そしてキリスト教解禁後に潜伏キリシタンからカトリックへの改宗がされて、木造教会が建てられました。

その後、1934年にハルプ神父と住民の寄付で、現在の教会が建てられました。
外観はゴシック建築ですが、内部は畳敷き、という珍しい教会です。


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教会がある場所は吉田庄屋の屋敷跡で、かつて絵踏みが行われていた場所です。
ハルブ神父はあえてそこを買い取り、屋敷跡に現在の教会堂を建設しました。
そしてまさに絵踏みが行われていた場所に祭壇が設けられました。


◆崎津諏訪神社

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石段の先に神社があります。

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1647年に創建されたと伝わる神社です。

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崎津村の潜伏キリシタンは大黒天や恵比寿神をデウス(ゼウス)に見立てたり、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアに見立てたりして、祈りをささげていました。

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潜伏キリシタンは崎津諏訪神社の氏子でもあり、「天草くずれ」のときにはこの神社で独特な信心具を没収されました。


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崎津諏訪神社から崎津教会を眺めることができます。

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崎津村は古くからの道路や区割りが残っています。
急斜面に作られた墓地には十字架を掲げた墓がいくつもあります。




マリア像の夕陽展望デッキ

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崎津集落は道路が狭くて駐車できません。
地区の入口にある漁協近くに駐車場があるので、そこから歩いて施設を見学します。


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その駐車場近くにマリア像の夕陽展望デッキがあります。
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マリア像の夕陽は天草夕陽八景の1つ。

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西側が海に面する天草市には、夕陽が美しいポイントが8か所あります。

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その1つがマリア像の夕陽。

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展望台の向こうにあるマリア像のバックに夕陽が沈むんですね。
まだ日が高い時間なので夕陽を眺めることはできませんでしたけどね。


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